浮牛城について

1 上口内要害(浮牛城ふぎゅうじょう

浮牛城上口内要害(浮牛城ふぎゅうじょう伊達だて藩は、領内に上級家臣を配置し、館と知行地を与え小領主とし、地域を支配させました。

 口内は最北の藩境の地で、伊達だて藩と南部藩を結ぶ脇街道わきかいどうがあり、軍事上の重要な地でした。

 口内町の中央にある上口内要害は、別名浮牛城ふぎゅうじょう(お館)で、城(館)を中心に小城下町をつくり、100人位の武士団が常住していました。

2 浮牛城の由緒いわれ

浮牛城の伝説では、「安部貞任さだとうが築城の際、いき牛三頭を埋めて地鎮じちんをしたことで命名された。」とあります。

築城工事に先立ち、土地の神をまつる地鎮の儀式に、生きた牛をいけにえとして神に捧げた、立派な由緒いわれです。

城(き城)とは、内堀や外堀をもつ堅固な城のことで、水掘りで城(館)が浮いたように、浮んだように見える城です。

3 浮牛城ふぎゅうじょうの命名

5代藩主伊達だて吉村(獅山しざん)公が、享保12年(1728)奥郡巡視で、口内に来訪し一泊しました。

古絵図に「獅山様御成おなりの頃浮牛館ト呼玉よびたまフ」とあります。由緒等からの藩主の命名と思います。

4 浮牛城ふぎゅうじょうの大要

浮牛城ふぎゅうじょう(お館)は、孤立状の丘陵にあり高さ30m・東西200m・南北130mの平山城ひらやまじろで、本丸・二の丸があり、周囲は水掘り・から掘・土塁どるい矢来やらいをめぐらしていた。 

浮牛城ふぎゅうじょうの大要本丸には書院と明神社があり、二の丸には領主の御住居おすまいと土蔵と山王社、それに馬場と的場まとばがあり。大手門・西門・東門(土門)がありました。

城下は、武士居住の小路こうじ(西・袋・向・四軒・中・八谷崎等)と町組(荒・新)があり、それに御百姓で伝馬てんま担当の新町に分けて、城下町を形成していました。

5 浮牛城ふぎゅうじょうの領主(地頭)

浮牛城まつりの大名行列中世浮牛城ふぎゅうじょうには口内氏がいましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置しおきで、追放され南部領へ移りました。

伊達だて領になった口内領主には、初め瀬上せのうえ氏(一家)次に小梁川こやながわ氏(一家)・藤田氏(一家)・田手たで氏(一門)・古内ふるうち氏(着座)と代わり最後は中島氏(一族)で、明治維新をむかえました。

瀬上せのうえ氏と小梁川こやながわ氏は、慶長5年(1600)の和賀の兵乱(一揆)に加勢し敗れました。

藤田氏の寛永19年(1642)、藩境塚の築造と検地があり、田手たで(改伊達だて)肥前宗房むねふさの長子は、4代藩主吉村です。

古内志摩ふるうちしま藩奉行はんぶぎょうで、寛文事件(伊達だて騒動)の唯一人の生き残りでした。

6 中島氏代々

初代宗意むねもとは、正宗軍団のさむらい大将で軍功をあげ、御書(感状)を賜りました。<桜岡神社の神宝>2代意成もとしげは、藩奉行として活躍(350貫文)瑞鳳殿と仙台東照宮の石灯篭に、その名が残っています。

5代利成とししげは、元禄8年(1695)加美郡小野田から、上口内要害に入部しました。(252貫文)8代以成のりしげの時、後継願の遅れで、168貫文余に減禄となりました。

14代外記げき意時もとときは、御定書ごじょうしょ(家宝)を示して実践し、後に藩奉行となり、明治元年9月仙台藩の降伏を進言しました。

15年兵衛之介意徳もとのりは、戊辰ぼしん戦争の大隊長で、口内武士団50人を引き連れて、白河へ出陣するも敗れました。

7 口内武士団

口内在郷武士団は、一家・五家・着座・御小姓おこしょう組・御徒おかち組・御足軽・御預おあずかり御足軽と家格が分かれます。

禄高の平均は650文(六石半)で、内1/3 がお蔵米くらまい支給で、三分の二は村内に手作てづくり地(田畑)を与えられ耕作し、半士半農で屯田兵とんでんへい的でした。

天明の大凶作後武士内職として口内傘作りをはじめました。

戊辰ぼしん戦争(明治維新)後、武士廃止となり、屋敷、住居、手作てづくり地(田畑)を与えられ、全員帰農土着しました。

8 浮牛城ふぎゅうじょう(お館)の現在いま

浮牛城址明治6年(1873)上口内小学校が、二の丸に創立されました(~明治41年まで)。

近年、浮牛城ふぎゅうじょう趾は1部北上市の農村(史跡)公園として町民により整備され、現在、口内町自治協議会によって、浮牛城ふぎゅうじょうを中心とした、絶滅の危機にある「日本メダカ(黒メダカ)の薗」、日本古来の「炭焼き」を含めた公園化を進めている。